まじめな乳腺外科の専門医が、ある日突然刑事事件の容疑者に……。そんな悪夢のような事件の裁判が、東京高裁で続いています。
2016年、ある男性医師が女性患者に乳腺腫瘍摘出手術を施した後、女性の胸をなめるなどのわいせつな行為をしたとして、準強制わいせつの容疑で逮捕されたのです。
今夏で逮捕から7年。いまなお続く裁判は、なぜここまで時間が掛かっているのか。そして、事件の真相はどこにあるのか。これまでの経緯を振り返り、今後の展望を見通します。
目次
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“術後の女性の胸をなめた”疑いで執刀医が逮捕される
“事件”があったのは、2016年5月10日。東京足立区の小病院で、看護師も出入りしていた午後3時ごろ、4人部屋の病室で起きました。乳腺腫瘍の摘出手術を受けた30代の女性がベッドで横たわっていたところ、執刀を終えた40代の男性医師が女性の服をめくり、胸を露出させてなめるなどのわいせつな行為に及んだというのです。
女性はナースコールし、被害を報告。約3カ月後に男性医師は逮捕されることになりましたが、事件が異例の事態をたどるのはここからです。男性医師の逮捕直後、事件の舞台となった所属病院が「逮捕の不当性について抗議する」とし、男性医師の拘束が「不当逮捕」だと訴える文章をホームページ上に公開したのです。医療機関がこうした声明を出すことは極めて珍しいといえます。
病院はなぜこのような声明を出したのでしょうか? 理由は手術後の患者の容体に関係しています。病院は術後間もない女性患者が「全身麻酔で術後せん妄状態に陥り、幻覚や錯覚が織りまざっていた」と指摘。職員などに聞き取り調査をした結果を踏まえても、わいせつ行為はなかったと主張しています。
執刀医や病院は「術後のせん妄であった可能性」を主張し徹底抗戦
男性医師も逮捕当初から容疑を否認。弁護士には、日本の刑事弁護界で「三大弁護人」と呼ばれるうちの1人で、あの日産自動車の元会長カルロス・ゴーン被告の弁護人も務めた高野隆弁護士がつき、徹底抗戦の構えを見せます。また、東京保険医協会などが医師の冤罪を訴えて署名を集めるなど、支援の輪が大きく広がっていきました。
ここで気をつけなければならないのは、医師を支援する方々は「女性が悪意を持って男性医師を陥れようとした」などという主張は全くしていないことです。麻酔から覚醒する段階で女性がせん妄によって幻覚を見ていた可能性を指摘するものであって、せん妄による幻覚は非常にリアルで生々しい実感を持っているとされています。また、覚醒時に性的な幻覚を見るというのも過去に報告されている現象です。つまり、医師か女性患者のどちらかがウソをついている、という単純な事件ではない可能性があるということを指摘しているのです。
地裁では無罪判決が下りるも、高裁では逆転有罪
男性医師は起訴され、事件は法廷に舞台を移しました。男性は変わらず否認を続け、2019年2月、東京地裁が下した判決は、無罪。刑事裁判の有罪率は99.9%と言われるなか、裁判所は「女性の証言は具体的で迫真性があるが、そもそも女性がせん妄に伴う幻覚を見ていた可能性がある」と指摘し、異例の無罪判決を出しました。
男性医師を起訴した検察側は、当然控訴。裁判は高等裁判所で争われることになりました。そして2020年7月、東京高裁は、一審とは正反対の逆転有罪判決を下します。医師は記者会見し、判決に大きな憤りを感じると訴えました。高裁判決では、女性患者が「助けを求めるLINEのメッセージを上司に送信しており、またその生々しい内容は当時の状況とも整合していてせん妄による意識障害があったとは相容れない事実である」と指摘しています。つまり、せん妄の影響は無かったと結論づけたのです。また、一審では女性の胸から男性医師のDNA型が検出されたことについて、会話により唾液が飛んだ可能性を指摘していましたが、高裁では「経験則などに照らして不合理だ」として、女性の胸をなめた証拠として取り扱いました。
当然、支援者や弁護団はこの高裁判決を批判しました。特に高裁で、「せん妄による意識障害があったかどうか」という判断をする際、検察側が「せん妄については専門外」と自ら宣言した医師の証人尋問を行い、アルコール酩酊時の意識障害の判断方法を流用した上で、女性の判断能力があったと証言した点です。また、一審で下された判断を覆すのに、新たに証拠を調べることをせず、具体的に「ここが一審の判断と違う」という指摘をしないうちに、一審と全く正反対な有罪判決を出してしまっているという点も批判しています。
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最高裁の判断は異例の「やり直し」
いよいよ判決は最高裁に移ります。日本の裁判は三審制です。一審、二審を経て、最高裁の判断が出ればもう文句なし、これで判決が確定するのが普通です。しかし、この事件ではここでもまた通常とは違う経緯をたどるのです。
2022年4月、最高裁が下した判決は、なんと「裁判のやり直し」。最高裁は、二審の高裁判決で証人の医師が証言した「女性の判断能力があった」という点について、「医学的に一般的なものではないことが相当程度うかがわれる」と厳しく指摘。DNA型の鑑定の信頼性にも不明確な部分が残り、著しく正義に反するとかなり強い言葉で締めくくっています。
事件発生から7年、今後の裁判に注目が集まる
この判断が示されたのが、逮捕から6年後。現在、そこから1年が経過し、実に7年が経ったいまも、いまだに高裁のやり直し判決は出ていません。弁護団は「検察官が有罪立証に失敗したのは明らかだ」としていて、不毛な審理がいまだに続いていると厳しく批判しています。裁判はこの後、高裁でのやり直し裁判、さらに最高裁での裁判と2回の審理を残しています。事件を捜査する検察側は、最高裁の指摘にどう答えるのか。結論が出るのはまだまだ先のことになりそうです。